圧倒的に効率がよいコミュニケーションとは?
今日は さいしょにちょっと 前置き文章あり。
なんだか 相手がなかなか自分のききたいことをいってくれない ときは2つのケースがあるとおもう。
ひとつは こちらが 「論理」 の話をしているのに 相手が 「感情」でこたえる場合。
たとえば 「これは こういう理由で できないよね?」 といっているのに 「嫌だから ききたくない」 とか。
好きとか嫌いとか きいていないのに 嫌だから嫌だとかいう場合。
あるいは 逆で 「感情」の話をしているのに 「論理」のこたえを返されるとき。
「ちょっと 少しでも助けてほしいんですが?」 と聞いているのに 「いや、自分では役に立たないとおもう。他をあたってくれ」
役に立つとか立たないとか そういうことではなくて 自分の気持ちを理解して欲しいとかいう場面。
手伝いましょう という一言が欲しかった とかいう場合なんだろうね。
現実には 「感情」か「論理」か一方だけの話ってのは ないんだろうけど どちらによりウェイトが かかっているのかというのは あるとおもう。
教科書的なこたえだと、
相手が 「感情」の話をしているのであれば 「感情」の手あてをしてから。 逆に「論理」のはなしなら 感情はよこにおいて 「論理」のはなしをする必要がある。
というのが こたえだろうね。
ココは すくなくとも 教科書的に 確実におさえておく必要があるとおもう。
で、前置きおわって ココからが本題なんだけど
実のところ 僕がコーチングをやっていて 話題にのぼるのは
ちょっと話をきくと 「論理」の話にみえるんだけど 実は「感情」の問題
だったり、
「感情」の問題のように みえているけど 実は「論理(方法)」の問題
だったりする場合がおおい。
オモテにでてる問題と ウラのほんとうの問題がちがうので 「感情」「論理」の対応をしても そもそも問題がちがうので なかなかうまくいかない。
これは 結論からいうと こういう話が しばしばおこるということは 組織なりチームなりの コミュニケーションのしくみ に問題があるんだよね。
つまり 誤解がおこりやすく 破錠しやすく 危うくもろい コミュニケーションのしくみ しかない場合だよ。
これは 個人個人のコミュニケーションスキルの向上では 解決しない。
かならず 組織的に コミュニケーションのしくみの構築にとりくむ必要がある。
ましてや 1人1人の「意識の向上」とか あやふやなものでは 「あいつは 意識が低い」とか 「意識の向上がみられない」とか で かえって関係が 悪化したりしてしまう。 最悪である。
コミュニケーションのしくみ とかいうと じゃ 情報共有したら いいのね? とか短絡的になるんだけど 情報共有というのは 間違いではないとおもう。
でも その共有しないといけない情報ってなに?
じゃ 一斉メールとかでOK! っていうこと?
そんなことないよね。
重要なのは 「感情をふくめた 情報共有」であって それは 感情だけを共有する「飲み会」とかじゃなく 「情報(論理)」だけを共有する 会議とかメールとかのコミュニケーションでも補えない。
イメージとしては 「すこし リラックスしたミーティング。でもアルコールは無し」 のオフサイトミーティングなんかが モデルになるとおもう。
(※ 実際 これは 会社によってさまざまです)
一見すると この時間に もうっちょっと 実務的な話をしたほうが いいんじゃないの? ちょっと 効率わるい気もする、、、、 とか いわれる。
でも実際は こういった時間や 場所などを 定期的に確保しておくと 「感情」の共有ができているので 実務をすすめていくときに おたがいの「感情」を いちいち配慮する必要がなく いきなり「論理」の決め事がチームで ものすごくはやく バシバシきまるので 圧倒的に 効率がよい。
こういうのを みていると いかに会社やチームで 「感情」の配慮に 時間や労力をとられているのかが まざまざとみえてしまう。
そして 場合によっては 感情の配慮だけで 疲れてしまったり 感情の共有だけで 満足したりして 本来 話し合い共有するべきことがらが どっかいってしまうこととか ムチャクチャおおい。
これは 重大な損失で それは このコミュニケーションのしくみを改善した組織からは 「二度と昔には戻りたくない」 「以前は なんの仕事をしていたのか わからない」とかいう コメントが まちがいなく聞かれることからも よくわかる。
つまり ふだんから 「感情をふくめた論理の情報共有」ができる時間と場所を確保していたほうが 圧倒的に効率的ですよ ということなんだよね。
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