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2011年11月 2日 (水)

名も無き 違いをもたらす「違い」について かんがえてみた

推測だけど(笑) 「ゆとり教育」って もともと 詰め込み教育とか ずーぅっとやってるんじゃなくて もう一段階上を目指すべきじゃないか? とか そんな問題意識ではじまったんじゃないかなとおもう。

 

受験戦争的なローカルな 点数競っても意味ないから ちゃんと応用力というか 創造力とか 生きていく力のような そういうものを 子供たちに学んで欲しい という企画だったと おもう。

 

正直 この理念とか ねらいとかは 今現在もいささかも いろ褪せるものではないと おもうな。

 

じゃあ 何が 問題だったのか? というと エラい人がいうには、

 

「企画やプログラムは わるくはなかった。しかし 現場の先生がたに そのプログラムを動かす能力がなかった。 あるいは きちんと動かせるだけの リソースをあたえることが できなかった。」

 

ということらしい。

 


これは よくある 典型的なケースで 会社とか組織でも

「やろうとしたことは よかった。でも 現場ではうまくいかなかった」

とか よくある。

これって でも本当は別に原因があるんじゃないかな。


僕は プラン(企画) → ドゥ(実行) → チエック(確認) →アクション(見直し) という1950年代に 作られた このやり方があんまり好きではない。

好きでない理由のひとつは 古いこと。

もうひとつは 人によって 解釈の幅が広いので 「彼は PDCAが甘いです」 「PDCAがうまくまわっています」とか なんの説明にもならんから。


企画した側の 役人とかエラい先生がたは 現場の学校の先生に問題があったって ことにしたいんだろうけど 学校の先生も大変だったろうね。

 

でも リソースがなかった とはおもえない。

 

だって ほとんど公立学校なわけだから 教育のプログラムをかえることって そりゃ ちびっとはお金が余計にかかったり めんどくさいルール変更とか 時間かかったりとか そういうことは あっただろうけど リソース不足とかは 原則ありえない。

 

学校で ゆとり教育のために お金が必要なので 税金ください! って いえばよかった?
でも そんな話しほとんど聞いたことがないぞ。

 

つまり リソース不足となるほど プログラムが走っていなかった のではないか? と推測される。(推測が多いが、、)

 


まとめると よき意図があり よい企画(一応)があり リソースがあっても それが うまくいくとは 限らない。 というか 大失敗することがあるということだ。

野球に例えると 勝とうぜ!っておもい(良き意図) 作戦をたてる(企画、プログラム) 良い選手をそろえる(リソース) そして 試合にのぞむ。

 

そして ボロ負けする。
ボロ負けするんだよ、これじゃ。

 

一見すると 負ける要素がないように見える。

 

もし 負けたとすれば 作戦(企画、プログラム)が間違っていた と考えるか 選手が実はいまひとつだったのか(リソースが少なかった) と考えやすい。

 

これが うまくいかない ポイントなんだよ。

 

 

うまくいかせるには 選手が プレイヤーとして適切な動きをする必要がある。

だから 何が適切なのか? が刻々と判断できる 現場監督が必要なわけだ。

そうでないと プログラムが走らない。

ここで 現場監督といったけど 野球だと それこそ監督かもしれないし キャッチャーだったり キャプテンだったり いろいろだとおもう。

だから ちゃんと 現場をマネージできる人間 プロデュースできる人間が 絶対に必要で その人しだいで その作戦や企画がよいものになったり 悪いものになったりする。

 

そう。

 

 

その人しだいで 良くもなり悪くもなるんだよ。 

極論すれば たいした作戦じゃなくても 現場監督が優秀であれば すごい成果がでるんだよ。
経験ある人はわかるはず。

 

 

そうなんだよ。

 


人材育成の 最重要ポイントは ここなんだとおもう。

これは 組織のなかで どのポジションなのか 会社によってバラバラなんだけど とにかく 現場に近いポジションであることは間違いない。

 

この「現場監督ポジションの仕事」って なんか適切な名前がないんだけど ないということは あんまり 重要視されてないんだろうね。

 

僕が コーチングと称して 会社や組織に介入するとき この「現場監督ポジションの仕事」を強化するように その人達に対して 最初にコーチングをおこなうようにしている。 

 

コーチングだけのときもあるし 実際に現場でいろいろ話すときもあるよ。

 

でも 大抵は すごく成果がでるんだよね。

 

なんとなく 僕は既存の コーチングを含む育成方法って 

1 個人個人の選手の能力を上げる

2 あるいは よい企画ができるように知識をしこむ

3 現場でうまくいくように 周辺の知識(コミュニケーションとかITの知識とか)をつたえる

 

とか ばかりで 肝心の ど真ん中の 「現場のプロデュース能力」の向上のスキルを伝えていないのではないか? とおもう。

 

ヒットエンドランを うまくいかせるために

1 打つ練習 走る練習をする

2 いつヒットエンドランの指示をだすか勉強する

3 サインの確認 練習をする

 

さて 上3つで ヒットエンドランがうまくいくか?

 

 

いくわけがない。

 

 

タイミングとか 微妙なフェイントとか 相手に合わせた揺さぶりとか を現場で刻々と判断して 任せたり 指示したり そういのが 重なって 「絶妙なヒットエンドラン」が決まるわけだ。

 

 

これの名前がおもいつかないんだけど でも 違いをもたらしている違いはここなんだよ。

 


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