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2011年11月

2011年11月22日 (火)

99%の人が間違っている! いわゆる「自責と他責」の考えかた

よく 自分の責任で考えましょう(自責)、他人の責任にする(他責)のはやめましょう とかいわれるんだけど これは間違えて とらえられているケースがおおいとおもうな。

 

一般的には 自分がやったこととかは 人や周りの責任にして いいわけとかしないで 自分の責任とかんがえて 自分で行動しましょう 的なかんがえだとおもわれる。

 

これは これで正しいんだけど たんなる道徳の授業みたいなもので 本来のつかいかたと違う。

 

 

「自責で考えるようにしましょう」というのは どっちに責任があるということに 関係なく 自分に責任があるとかんがえると あらたなアクションをおもいつく という思考法のテクニックだ。

 

 
だから どっちに責任があるか? とかは問題にしてないし ましてや 相手が悪いというものさえ 自分の責任とかんがましょうというような 精神論ではないんだよね。

 

どういうことか?

 


たとえば ことしみたいな 震災がおこったとき 

 

「自分にできることは何か?」

 

とかんがえると どうだろうか?

(実際 テレビとかで超大々的にやってたりしたけど、、、、)
※ 参考エントリー → できることは何か?って考えるんじゃなくて

 

 

自分に何ができるのか? と考えると たとえば できる範囲で募金しようとか 祈りましょうとか 千羽鶴を折りましょうとかになったりする。

 

一見 すごく正しい問いかけのようにみえるけど これは典型的な「他責」の考えなんだよね。

 

なぜ 「他責」の考えなのかというと 問いかけを変えてみると よくわかる。

 

例えば 地震がおこったことは仕方ないが もし自分の力が至らなかったために 災害の被害が拡大したのだとすると それはどんなことが考えられるだろうか?

その自分の力が至らなかった責任をどのようにとればいいだろうか?

今後どのようにすれば このようなことが起こらないだろうか?

 

という問いかけだとすると どうだろうか?

 

もしかしたら もっと防災に関して勉強しておく必要がある、とか もっときちんとした人を政治家に選ぶべきかもしれないとか 考えたりする。
本当に 災害の被害をうけた人にとって 役に立つことは何か?ということを考えるはずだ。

 

できることをやろう という気持ちから 効果のあることをやろう という気持ちになるとおもう。

 

ここのシフトが重要なんだよね。


僕たちにできることは何か?と考えるのは 一見正しいようにみえるけど それは 

「僕たちには 責任がないけれども しかし責任が無い(悪くない)僕たちでもできることを やれるいい人になろうよ」

ということで 「他責」の考えなんだよね。

 

 

「自責」というのは 何をやれば効果(成果)があがるのだろうか?という問いかけで 

「こういう事態になったのは 自分自身がやるべきことができなかったから おこったことだ。だから役に立つことをやらなければいけない」

という 責任は自分にあるという「自責」の問いかけだ。

 


他責で考えるのと自責で考えるのでは 行動が変わってくる。他責の考えででてきた行動は 全く役に立たない、、、、、とまではいわないが 効果的でないことの方が多い。

逆に言えば 「自責」の立場でかんがえると 効果的なアクションが生まれてくることが多いということだ。

 

 

これが テクニックといってもいいというポイントなんだよ。

 

 

つまり 実際の責任がどっちにあろうと関係なく 「自責」の立場にたって思考する というクセをつければ 効果的な方法がみつかりやすいということだ。

だから「他責」の考えではダメだ といわれるゆえんだとおもう。

精神論とか どっちが悪いのかジャッジするとか そういうこととは違う話なんだよね。

 

 

「自責」で考えるのは難しいんだよね という人は たぶん 実際にどっちに責任があるのか?ということにこだわっているんだとおもう。

それは 少なくとも有効な方法をかんがえるという思考においては 全く無意味な感情であって 賢明であろうとするならば その感情をコントロールすべきだとおもう。

実際の責任 うんぬんはそれをはっきりさせる必要がある場合は しかるべき手続きによってはっきりさせればよいはず。

 

 

コーチングなんかで この質問がすっと投げられる人と 投げにくい人がいる。
すっと投げられる人は この思考法をうけいれてくれるのだが そうでない人は質問をなげかけても、

「えっと なんか私には責任がないように思えるのですが、、、、」
「ちょっと そういうふうに考えられないですね」
「それは 違うとおもいますよ」

とか 「どっちが正しい論」に終始してしまう。不毛だとおもう。

 

 

すくなくとも 効果的な思考をするためには 「何が成果につながるのか?」という1点のみに絞る必要があるはずじゃないかな。

 

2011年11月21日 (月)

ツールドおきなわ2011を走ってきたよん。一応(笑)

なんか ちょっと時間たちましたけど 11/13に ツールドおきなわにエントリーしてきました。

昨年は 100キロサイクリングに参加  したんだけど 今回は 50キロレースに参加してきました。

4


昨年とちがって すごく良い天気。

50キロの、それもレースなので スタートして2時間くらいで終わるのですが 正直あんまり モチベーションがあがりません。

理由は あんまり練習できなかったことが一番大きいかなぁ。
一応 足切りにあわずに 最下位でゴールすることを目標にします。
でも そんな目標では もちろんモチベーションあがりませんけど スタートしてしまえば なんとかなるでしょう。たぶん。

 
 

5

スタート前。

僕のカテゴリーは フォーティで この青いゼッケンなんだけど それでも こんなにゴチャゴチャいます。

スタンバイして 1時間くらい まって やっとスタート。

スタートして しばらくは ゆっくりの走り出し。 混雑しているので。

5キロぐらいから 少しずつ 走り出して 10キロくらいから だいたいペースがでてきます。

 
 
 

コースは 名護まちなかをスタートして、本部 今帰仁をとおって、戻ってくるというコース。

Map_race_short_2011



前半は 比較的平坦なルートですけど 後半は2ヵ所ぐらい キツイ登りがあります。

 
 

一応 前半は ある程度しっかり走って 後半の坂に備える。
そして なんとか チェックポイントを突破して(笑) 時間ギリギリで(爆) ゴールするという 作戦です。

 

前半は いい天気もあって 快調にすすみます。
正直 ずーっと 平坦な道がつづくと嬉しいんですけどね。

 

前半20キロくらいまでは 順調に走ります。

 

そして 後半の最初の登りで いきなり ペースダウン。予定通り(笑)
なにせ ほとんど練習していませんから バシバシ抜かれます。
でも 全然OK。
ちゃんと タイムを刻みます。

 

沿道の応援も続きます。相変わらず 沖縄の応援はすごいです。

 
 

2本目の坂あたりで 後ろからきた グループに圧倒的にぶち抜かれていきます。
でも もちろん 気にしません。
とにかく 2本目の坂を過ぎれば 最終のチェックポイントまでもう少しなので そこまでは 自分自身のペースを守ります。

なんとか 坂を越えて チェックポイントを通過。
完走が見えてきました。

 
 

あとは 残りの距離を計算して ペースダウン(笑)
無理はいけません。
まぁ あんまりペースダウンすると 集中力が落ちるので イーブンペースで走ることを心がけます。

途中で 友人に声をかけてもらって ゴール近いことを知ります。

最後は 後ろから来たかたに さきを譲って 無事ゴール。

なんとか 完走できて よかったです。


Photo 6

タイムは ぜんぜんですが まぁこんなもんです。

でも 次回は レースよりも サイクリングのほうが楽しいので そっちにしようかな。

2011年11月 2日 (水)

名も無き 違いをもたらす「違い」について かんがえてみた

推測だけど(笑) 「ゆとり教育」って もともと 詰め込み教育とか ずーぅっとやってるんじゃなくて もう一段階上を目指すべきじゃないか? とか そんな問題意識ではじまったんじゃないかなとおもう。

 

受験戦争的なローカルな 点数競っても意味ないから ちゃんと応用力というか 創造力とか 生きていく力のような そういうものを 子供たちに学んで欲しい という企画だったと おもう。

 

正直 この理念とか ねらいとかは 今現在もいささかも いろ褪せるものではないと おもうな。

 

じゃあ 何が 問題だったのか? というと エラい人がいうには、

 

「企画やプログラムは わるくはなかった。しかし 現場の先生がたに そのプログラムを動かす能力がなかった。 あるいは きちんと動かせるだけの リソースをあたえることが できなかった。」

 

ということらしい。

 


これは よくある 典型的なケースで 会社とか組織でも

「やろうとしたことは よかった。でも 現場ではうまくいかなかった」

とか よくある。

これって でも本当は別に原因があるんじゃないかな。


僕は プラン(企画) → ドゥ(実行) → チエック(確認) →アクション(見直し) という1950年代に 作られた このやり方があんまり好きではない。

好きでない理由のひとつは 古いこと。

もうひとつは 人によって 解釈の幅が広いので 「彼は PDCAが甘いです」 「PDCAがうまくまわっています」とか なんの説明にもならんから。


企画した側の 役人とかエラい先生がたは 現場の学校の先生に問題があったって ことにしたいんだろうけど 学校の先生も大変だったろうね。

 

でも リソースがなかった とはおもえない。

 

だって ほとんど公立学校なわけだから 教育のプログラムをかえることって そりゃ ちびっとはお金が余計にかかったり めんどくさいルール変更とか 時間かかったりとか そういうことは あっただろうけど リソース不足とかは 原則ありえない。

 

学校で ゆとり教育のために お金が必要なので 税金ください! って いえばよかった?
でも そんな話しほとんど聞いたことがないぞ。

 

つまり リソース不足となるほど プログラムが走っていなかった のではないか? と推測される。(推測が多いが、、)

 


まとめると よき意図があり よい企画(一応)があり リソースがあっても それが うまくいくとは 限らない。 というか 大失敗することがあるということだ。

野球に例えると 勝とうぜ!っておもい(良き意図) 作戦をたてる(企画、プログラム) 良い選手をそろえる(リソース) そして 試合にのぞむ。

 

そして ボロ負けする。
ボロ負けするんだよ、これじゃ。

 

一見すると 負ける要素がないように見える。

 

もし 負けたとすれば 作戦(企画、プログラム)が間違っていた と考えるか 選手が実はいまひとつだったのか(リソースが少なかった) と考えやすい。

 

これが うまくいかない ポイントなんだよ。

 

 

うまくいかせるには 選手が プレイヤーとして適切な動きをする必要がある。

だから 何が適切なのか? が刻々と判断できる 現場監督が必要なわけだ。

そうでないと プログラムが走らない。

ここで 現場監督といったけど 野球だと それこそ監督かもしれないし キャッチャーだったり キャプテンだったり いろいろだとおもう。

だから ちゃんと 現場をマネージできる人間 プロデュースできる人間が 絶対に必要で その人しだいで その作戦や企画がよいものになったり 悪いものになったりする。

 

そう。

 

 

その人しだいで 良くもなり悪くもなるんだよ。 

極論すれば たいした作戦じゃなくても 現場監督が優秀であれば すごい成果がでるんだよ。
経験ある人はわかるはず。

 

 

そうなんだよ。

 


人材育成の 最重要ポイントは ここなんだとおもう。

これは 組織のなかで どのポジションなのか 会社によってバラバラなんだけど とにかく 現場に近いポジションであることは間違いない。

 

この「現場監督ポジションの仕事」って なんか適切な名前がないんだけど ないということは あんまり 重要視されてないんだろうね。

 

僕が コーチングと称して 会社や組織に介入するとき この「現場監督ポジションの仕事」を強化するように その人達に対して 最初にコーチングをおこなうようにしている。 

 

コーチングだけのときもあるし 実際に現場でいろいろ話すときもあるよ。

 

でも 大抵は すごく成果がでるんだよね。

 

なんとなく 僕は既存の コーチングを含む育成方法って 

1 個人個人の選手の能力を上げる

2 あるいは よい企画ができるように知識をしこむ

3 現場でうまくいくように 周辺の知識(コミュニケーションとかITの知識とか)をつたえる

 

とか ばかりで 肝心の ど真ん中の 「現場のプロデュース能力」の向上のスキルを伝えていないのではないか? とおもう。

 

ヒットエンドランを うまくいかせるために

1 打つ練習 走る練習をする

2 いつヒットエンドランの指示をだすか勉強する

3 サインの確認 練習をする

 

さて 上3つで ヒットエンドランがうまくいくか?

 

 

いくわけがない。

 

 

タイミングとか 微妙なフェイントとか 相手に合わせた揺さぶりとか を現場で刻々と判断して 任せたり 指示したり そういのが 重なって 「絶妙なヒットエンドラン」が決まるわけだ。

 

 

これの名前がおもいつかないんだけど でも 違いをもたらしている違いはここなんだよ。

 


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