99%の人が間違っている! いわゆる「自責と他責」の考えかた
よく 自分の責任で考えましょう(自責)、他人の責任にする(他責)のはやめましょう とかいわれるんだけど これは間違えて とらえられているケースがおおいとおもうな。
一般的には 自分がやったこととかは 人や周りの責任にして いいわけとかしないで 自分の責任とかんがえて 自分で行動しましょう 的なかんがえだとおもわれる。
これは これで正しいんだけど たんなる道徳の授業みたいなもので 本来のつかいかたと違う。
「自責で考えるようにしましょう」というのは どっちに責任があるということに 関係なく 自分に責任があるとかんがえると あらたなアクションをおもいつく という思考法のテクニックだ。
だから どっちに責任があるか? とかは問題にしてないし ましてや 相手が悪いというものさえ 自分の責任とかんがましょうというような 精神論ではないんだよね。
どういうことか?
たとえば ことしみたいな 震災がおこったとき
「自分にできることは何か?」
とかんがえると どうだろうか?
(実際 テレビとかで超大々的にやってたりしたけど、、、、)
※ 参考エントリー → できることは何か?って考えるんじゃなくて
自分に何ができるのか? と考えると たとえば できる範囲で募金しようとか 祈りましょうとか 千羽鶴を折りましょうとかになったりする。
一見 すごく正しい問いかけのようにみえるけど これは典型的な「他責」の考えなんだよね。
なぜ 「他責」の考えなのかというと 問いかけを変えてみると よくわかる。
例えば 地震がおこったことは仕方ないが もし自分の力が至らなかったために 災害の被害が拡大したのだとすると それはどんなことが考えられるだろうか?
その自分の力が至らなかった責任をどのようにとればいいだろうか?
今後どのようにすれば このようなことが起こらないだろうか?
という問いかけだとすると どうだろうか?
もしかしたら もっと防災に関して勉強しておく必要がある、とか もっときちんとした人を政治家に選ぶべきかもしれないとか 考えたりする。
本当に 災害の被害をうけた人にとって 役に立つことは何か?ということを考えるはずだ。
できることをやろう という気持ちから 効果のあることをやろう という気持ちになるとおもう。
ここのシフトが重要なんだよね。
僕たちにできることは何か?と考えるのは 一見正しいようにみえるけど それは
「僕たちには 責任がないけれども しかし責任が無い(悪くない)僕たちでもできることを やれるいい人になろうよ」
ということで 「他責」の考えなんだよね。
「自責」というのは 何をやれば効果(成果)があがるのだろうか?という問いかけで
「こういう事態になったのは 自分自身がやるべきことができなかったから おこったことだ。だから役に立つことをやらなければいけない」
という 責任は自分にあるという「自責」の問いかけだ。
他責で考えるのと自責で考えるのでは 行動が変わってくる。他責の考えででてきた行動は 全く役に立たない、、、、、とまではいわないが 効果的でないことの方が多い。
逆に言えば 「自責」の立場でかんがえると 効果的なアクションが生まれてくることが多いということだ。
これが テクニックといってもいいというポイントなんだよ。
つまり 実際の責任がどっちにあろうと関係なく 「自責」の立場にたって思考する というクセをつければ 効果的な方法がみつかりやすいということだ。
だから「他責」の考えではダメだ といわれるゆえんだとおもう。
精神論とか どっちが悪いのかジャッジするとか そういうこととは違う話なんだよね。
「自責」で考えるのは難しいんだよね という人は たぶん 実際にどっちに責任があるのか?ということにこだわっているんだとおもう。
それは 少なくとも有効な方法をかんがえるという思考においては 全く無意味な感情であって 賢明であろうとするならば その感情をコントロールすべきだとおもう。
実際の責任 うんぬんはそれをはっきりさせる必要がある場合は しかるべき手続きによってはっきりさせればよいはず。
コーチングなんかで この質問がすっと投げられる人と 投げにくい人がいる。
すっと投げられる人は この思考法をうけいれてくれるのだが そうでない人は質問をなげかけても、
「えっと なんか私には責任がないように思えるのですが、、、、」
「ちょっと そういうふうに考えられないですね」
「それは 違うとおもいますよ」
とか 「どっちが正しい論」に終始してしまう。不毛だとおもう。
すくなくとも 効果的な思考をするためには 「何が成果につながるのか?」という1点のみに絞る必要があるはずじゃないかな。
最近のコメント