2024年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

最近のトラックバック

twitter

« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »

2010年12月

2010年12月30日 (木)

2010年をふりかえって

少し はやめに、今年をふりかえってみようとおもう。(そんなにはやくもないか)

 

僕はふだんは、企業や団体の中に入りこんで そのなかで 個別のコーチングをしたり プロジェクト進行のコーチをしたり そして 研修とか講演をしたり なんかわけのわからない相談(笑)とかにも のったり って感じで仕事をしている。

 

そういう視点から 沖縄の地場企業が中心なんだけど 人材に対するニーズについて 振り返ってみる。

 

それで 今年は とにかく 「戦力化」 っていう雰囲気だった。

 

ひらたくいうと 「つかえる人材に どんどんして欲しい」というニーズがとても高く感じた。
別に 今年だけじゃなくて いつもじゃないか、、、とおもわれるんだけど 少し今年っぽい特徴がある。

 

なぜ? 戦力化のニーズが高まっているのか?

 

それは 新しく人を採用したくないからだ。

 

というか、あんまり採用できる余裕はない といったほうが良い。
新卒、、、という意味じゃなくて 中途採用でという意味。

 

既存の人材をつかって できるだけ価値の高い仕事をして欲しい、 なぜなら 新しく設備投資とか新人の採用のような 大きな投資は難しいが お客さんの要求には高いレベルで答えたいという 気持ちがあるからだとおもう。

 

そして できるだけ長く働いて あんまり入れ替わって欲しくはない という感じが強かった。
だから 働いている人にとっては  いっぱい要求もふえたけど 勉強や研修の機会もふえて わりと重用されている感じがしたんじゃないかな。

 

 

だけど 職探しをしている人や キャリアがうすい人には もの凄く厳しかったとおもう。 そして今後も厳しいことは間違いない。だから やっぱり今 職を失うのはかなりのリスクになるとおもう。

 

そういう中だから 仕事がある人は 待遇はひどい状況ではないが、要求が大きくなっていて それに答えられないと仕事を失ってしまうという プレッシャー。

 

仕事をさがしている人は なかなか見つからない というプレッシャー。

 

つまり仕事がキツイという人と 仕事が無いという人がそれぞれプレッシャーを感じるんだけど 足して2で割る というわけにはいかない というのが現実(当たり前だが)

 

だから 来年以降は 僕はメンタルヘルスにも もっと力をいれていく。

今も カウンセラーとしての仕事がとてもふえてきているんだけど 僕のフィールドは どちらかというと 予防的な仕事になっていくとおもう。

 

このへんは また次回にでも書いてみたい。

 


個人的な仕事にかんしては、アウトプットのやり方がよくわからなくて イライラしたりしていた時期もあったな。

 

伝えていいことと 伝えてはいけないことが なかなか難しくなってきて あんまり発言しなかったりしたんだけど そうすると 僕自身にストレスになって 大声で叫びたくなった時期もあった。

 

やっぱり 僕個人としては 仕事のやりかたが 洗練されている人でないと 一緒には仕事はできないな。 仕事ができる、できない じゃなくて 「やり方」。
そのへんは あんまりムリしないようにする。 ずいぶん 悪い影響でたしね。
何が正しいことで 何が間違ったことなのか 相容れなければ 近づかないことだな。

 



あとプライベートでも けっこう動きがあったかなぁ。

一番はトライアスロンを はじめたこと。
それで サイクルイベントにもでていくようになった。

タバコは完全にやめた。

沖縄に ラーメン屋がふえて お昼に迷えるようになった(笑)

iPadを手に入れて 本の「自炊」をはじめた。
でもポメラも使いつづけているんだけどね。


そんなかんじでした。

総じて、僕自身にとっては なんか いろいろ見極めて 種まきしたようなそんな1年だったようにおもうな。 うん。


では みなさま 来年もよろしくおねがいいたします。

よいお年を!

コーチングオフィス沖縄  白水淳





2010年12月24日 (金)

コーチングとは何か?(音声)

 音声ファイルで、「コーチングとは何か?」について 話してみました。

 時間は だいたい5分ちょっとで 僕と いつもお手伝いをしてくれる アシスタントの國場女史と2人で話をしています。

 ↓ ↓ ↓

 

コーチングとは何か?

 またはこちら

 ↓ ↓ ↓

 

ボイスブログ

 内容 

 コーチングとは何か?
 個人に対するコーチングと、組織に対するコーチングの違い

 PODCASTにもしたいのですが まだ できません(苦笑)
 できるだけ はやくできるように対応します。




 

2010年12月12日 (日)

映画 「ノルウェイの森」

3

そのころ、まだ 福岡から大分の別府まで 高速がつながっていなかった。 
だから 大学生のころ、僕は高速をおりて 国道を延々とすすみ そして湯布院、安心院、城島高原ってよく行った。時間はあった。お金はそんなになかったけど、でも 今の大学生とかと比べると めぐまれていたとおもう。稼ぐ手段がいっぱいあった。 

 

 

そして もちろん 当時つきあっていた彼女もいた。

 

 

二人で でかけていったわけだ。 そして 二人で話しをする話題も 延々と続く国道の道のりでは足りないぐらい 話をすることがあった。 いまからおもうと 夢のような日々だった。
(※ 数年後に僕はその彼女から、痛烈にふられることになるんだけど それはまた別の話(笑))

 


映画「ノルウェイの森」ででてくる 阿美寮のまわりの美しい景色は 湯布院、安心院、城島高原の景色と重なった。そして 当時の夢のような日々と ワタナベくんが 過ごした夢のような日々が 僕自身の中でシンクロしていった。
スクリーンで見ている景色が 僕自身が体験した景色のようで なんだか胸がつまる想いがした。 
だから、そのあと直子が死んだあとのワタナベくんの哀しみも同じように迫ってくるのかな?とおもったら そうでもなかった。

 

 

それは たぶん 直子が死んでしまうということを僕が知っていて ワタナベくんは知らないということが 一番の理由じゃないかなとおもう。
ワタナベくんは物語の中の人なので 当然知らないんだけど 僕はこの原作をなんども読んでいて どうなるかよく知っている。でも それ以上に 僕は もうすでに 「そういうものはなくなってしまう」ということを知っている年齢なんだ ということが大きいとおもう。
ワタナベくんの哀しみが すでに自分のものとしては とらえられなくなっている年齢なのだ。

 


ただ、実は 正直いうと そういうことって 別に僕にとってはどうでも良いことで わざわざお金をはらって映画をみてわかる必要はない。
それなりに 「そうか もうすでにそんなに若いわけではないのだな」とか おもわないでもないけど その程度のことであれば 普段から いろんな場面で感じているので(笑) 映画をみて悲しくなる必要なんか全然ない。

 

 

僕がこの映画に期待した点は ただ1点。

「村上春樹がOKをだした 映画が はたして小説と同じように 心に響く映画になっているか?」

という1点だけで そして 多くの人はそれを期待して 観に来たんだとおもう。

 


そして その期待にこたえる映画なのか? と聞かれると 正直ちょっと 難しいかもしれない。


原作を読んで 感激した人は その感激を超えるものは映画には見つけられなかったはず。
同じように 原作を読んで泣けた人は 同じように泣けたかというと 泣けなかったはず。
つまり 原作を超えてはいるとは ちょっと簡単には言い難い映画ではあるとおもう。

 

 

ただ フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」が ロバートレッドフォード主演の映画で その「立体感」が増したように 今回の映画化で ノルウェイの森の映像のイメージというのは 良い意味でクリアにはなったんじゃないかな。

 

 

つまりは そういう 映画なんだとおもう。
小説「ノルウェイの森」を補完する映画。
それ以上でも それ以下でもない。
それ以外に どんなふうに ものすごい数の人それぞれに 思い入れのある小説を映画化できるんだろうか?
こういう描き方しか できないはず。

 

 

2

トラン・アン・ユン監督は 本当に繊細にデリケートに撮った雰囲気が色濃くでていた。これだけの作品だから 映画化そのものも困難だったとおもう。
でも 困難さを 丁寧にひとつひとつクリアしていくような それこそ村上作品のように 映画を撮ったのが感じられて 映画体験としてはとても気持ちがよかった。

 

 

ワンシーンワンカットというほど、厳密ではなかったとおもうけど 基本的にカットは割らないで 回していたからゆっくりシーンに入りこめた。 これはこの映画の秀逸なぶぶんだとおもう。

 

 

松山ケンイチは 文句なくいい。というか、ハマり過ぎで印象が弱いとさえ感じる。それぐらい完璧。ミドリ役の水原希子は、この映画で最高のキャスティング。今はモデルらしいんだけど 今後100%ブレイクするとおもう。ミドリの瑞々しさ、残酷さを とても素敵に演じているとおもう。

 

 

菊地凛子は 僕はとても好きな女優なんだけど 直子役としてみれば どうかな。これは全然わからない。よかった気もするし そうじゃない気もするし。ただ 直子役って 誰がやっても 何かいわれる役どころだよね。

 

 

端役の 糸井重里や高橋幸宏、細野晴臣などもふくめて キャスティングは 完璧。とくに女優はいい。 たぶん凄く神経つかったんじゃないかな。


映像美は 本当に秀逸で 画面がきれいで とても気持ちがいい。頻繁にあるベッドシーンだけど 抑制がきいていて(ヌードシーンはワンカットもない)物語を邪魔しない。

 

 

4

もう1回みるか? といわれれば たぶん もう1回 スクリーンでみる。
DVD化されたら また見る? と聞かれれば 結局 また見るとおもう。

 

つまりは 僕にとっては それだけ 「ノルウェイの森」というのは 特別な作品なので 正直 出来不出来とかどうでもよくて その世界に入りたいときには  これから先 映画をなんども 見返すことになるんだとおもう。

 

そして 何回もみる映画として 僕にとっては とても好きな映画のひとつになっていくはず。

そういう映画なんだとおもう。

2010年12月11日 (土)

映画 「ノルウェイの森」 (前夜)

そもそも、村上春樹の小説の雰囲気って学生運動であったり、ジャズ喫茶とか もの凄く日本的なことを書いているのに 文章そのものは ぜんぜん 「日本臭」がしない。 にもかかわらず 読後はとても ドメスティックな印象をあたえることが 圧倒的な特徴なんだとおもう。

 

ちょうど 80年代ごろって 伝統的な 文学小説的なものが 突き詰めていく「中身」というものが あってもなくても別にどうでもいいんじゃないの?っていう雰囲気が支配的だったようにおもう。

 

実際 そのころの 旬な作家って もう、「中身」が何であるか? という話をしていなくて どんな服を着せればよいのか? という話題になっていたんだけど 村上春樹は まわりが学生服をきてうろうろしている時代に さっそうと 海外ブランドの服をきて 現れたような それぐらい 飛び抜けてスタイリッシュな文体だった。

 

だからこそ 「服だけかっこよくても、中身がたいしたことないじゃないか!」っていわれたりしたんだけど そう言っている連中が、実はさんざん どんな学生服がいいかとか、どんな着こなしをすると モテるのか?的な、いわば 中身でない話ばかり していたわけで 「そんな カッコ悪い連中とつきあうつもりはない」っていう 村上春樹の主張は当然だった。

 

小説 「ノルウェイの森」は あえて そういうカッコ悪い「日本文学的テーマと文体」を意識して 書かれたいわば パロディのパロディで それは村上春樹の言葉を借りれば「100%の恋愛小説です」ということだった。つまり いつもブランド服を着ている自分が あえて 学生服を着こなすとすれば こういう着方をしますよ、どうですか?これでも いままでより よっぽどいいでしょ?という位置づけだったはず。

 

100回は読んでいない。でも、30回ぐらいは 僕はこの「ノルウェイの森」を読んだとおもう。それも、ほぼ発表同時期に。 つまり80年代後半 今から20年以上前 バブル絶頂期。
なんで そんな時期に 何回も「恋愛小説」を 読み返していたのか? それは そういった時代に なんだか「恋愛」っていうものが とっても大切な気がしていたからだとおもう。

 

いや、ちょっとちがうな。

 

恋愛が大切と おもってしまうのは どうしてなんだろう? どうして たんなる価値のひとつでしかない 恋愛を書いた小説に こんなに心を揺さぶられるのかを 知りたいとおもったから。 もちろん小説のなかの恋愛はメタファーでもあって、人との関係とか、絆とか そういうものだとも 読みとれるんだけど 「こころを揺さぶられるものというのは こんなにも揺さぶられるものなんだ」というメッセージを僕は そのとき受け取った。

 

12月11日 「ノルウェイの森」映画公開。
なんか いろんなおもいがあって 明日どんな気持ちになるのか わかるような気もするし 全然わからないような気もするし。


2010年12月 9日 (木)

「頑張ること」の誤解?

今年も 押しせまってきて 今年の目標どうだった?とか コーチングしてても 話題になるんだけど ちょっと気づいたことがある。


「今年は イマイチ目標に届かなかったので 頑張ります」

「あとまだ1ヶ月あるので 頑張ります」

「来年は うまくやれるよう 頑張ります」


う~ん、、、、 「頑張る」って何?


意気込みとしては いいとおもうんだけど どうもよくわかんないので コーチングのクライアントさんに聞いてみた。

 

「頑張るって、、、どういうことだとおもいますか?」

 

ってきいてみたら だいたい返ってきたのが

 

「今より もっと負荷をかける」

「今より 何かしらのリソース(時間、人、お金などなど)を投入する」

「やるべき事を やる」

「逃げていたものから 逃げないで 直視する」

 

、、、、 どうなんだろう???

 


聞いてみて 僕自身が 感じた ニュアンスとしては 

「避けていた 嫌なこと、大変なこと、キツイことを 今よりも もっとやる」


というのが 「頑張ること」みたいに とらえている雰囲気がすごく感じた。

 

でも、これって 今より 「嫌なこと、大変なこと、キツイこと」をやれば うまくいく ということが保証されているってことだよね?


そんなことは 現実には ありえない。

今より「嫌なこと、大変なこと、キツイこと」をやることと うまくいくことに 因果関係はないはず。


「頑張ること」というのは
 

「自分が 好むと 好まざるとにかかわらず 最善の方法をとりつづけること」 


が 頑張るということで 我慢したり 嫌なことをやることが 頑張ることじゃないとおもう。


ベストな方法が 楽しいことや 得意なこと 楽チンで安くすむこと であれば それをやり続けることが 頑張ることの場合だってある。

(もちろん 嫌なことをやることが ベストの方法であれば それをやらなければ いけない)

 

 

 

うまくいかないことや もっとうまくいかせようとするとき

 

今より「嫌なこと、大変なこと、キツイこと」

 

をすることで 事態を打開しようとしたりするんだけど そうじゃない。

 

 

頭でわかっていても そうしておけば 「キツイおもいをしている」というのが まわりに見える。

だから 同情されたり 共感されたり 場合によっては 救ってもらったりされる。

 

そういうのが 「クセ」になってしまえば 典型的な「負けグセ」がついてるパターンになる。



そろそろ 来年の目標は、、、、 って時期にはいってきて コーチングのテーマも そういう話が増えるんだけど  具体的にどうする?ってときに 

 

「本当は何をやるのが ベストなんだろう?」

 

って考える きっかけになるとおもう。

2010年12月 6日 (月)

マラソンやめます(ナハマラソン)

恥の多い マラソン人生を 送って来ました。

思えば、初マラソンは 尚巴志ハーフマラソンで 3時間15分のタイムリミットで 3時間6分でゴール。

そもそも、はじめたのは ダイエット目的。
ただ走るのはつまらないので 大会にもでよう、、、まあ ハーフぐらいなら走れるか?
とかそんな理由でございました。

それから フルマラソンも走るようになり、ベストタイムは4時間32分で 次こそは4時間30分を切るぞ! いやいや どうせなら4時間切らなければ、、、 おいおい 何年走っているんだい? 3時間55分は切れるだろう だって練習でも それぐらいで走っているじゃないか。


それから はや3年(たぶんそれくらい、、、)


その間 一度も5時間を切れず。
ここ3年くらいのベストタイムが 5時間6分 (だったとおもう)
それも 一番古いタイム。

そう 認めたくはないが 僕は 年々遅くなっているのだ。

 

マラソンランナー 失格。

いまの自分には、走る幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。

 

とか 太宰的感傷に ひたっていても仕方がない。


とにかく今シーズンは そんなものを 払拭しなければ ならん!

という 意気込みで ナハマラソンに 出場したわけですが 結果は、、




 
 
 


 
  

20101205175204


 

 



 
 
 

またもや 撃沈。

5時間台で 終了~ お疲れさまでした。

まぁ 冷静になってかんがえてみると 前半飛ばしすぎて 後半失速して、、、の典型的なパターンなので あーだこーだ言えないでしょうね。






次のフルマラソンは 来年のおきなわマラソンです。

でも その大会でまたもや、自分の納得のいく走りができなければ もうマラソンやめます。

納得のいく走りっていうのが どれくらいなのか まだわからないけど でも 確実に誰でもいつかはシューズを脱ぐ日はくるので それを自分で決めても いいじゃないですか。

と いうことで 次のフルマラソンはおきなわマラソンです。


 




 





2010年12月 3日 (金)

コンセプチュアル スキル

部下評価、社員評価のやり方で 最近は BSC(バランススコアカード)が大流行だけど そのまえはコンピテンシーが主流だった。


 

で、そのネタもとになっているのが ロバートカッツの提唱している 「3つのソーシャルスキル」だ。


この3つのスキルが高いと、仕事のスキルが高いとされるわけだ。


1 テクニカルスキル

仕事そのもののスキル。
 


2 ヒューマンスキル

簡単にいうと コミュニケーションスキル

 

3 コンセプチュアルスキル

概念化能力っていわれるんだけど、抽象的なものから 具体的なものへ 具体的なものから抽象的なものへ というスキル。

 

最初の2つはなんとなくわかる気がするんだけど、3つめの コンセプチュアルスキルって わかったようなわからないような、、、、。


僕自身は このカテゴライズが「どうよ?」っておもう人なんだけど 便利がイイのでこの3つのスキルが仕事に必要な3つのスキルとしてみる。

技術的なスキルの向上は どうすればよいのか なんとなくわかる気がする。
ヒューマンスキルも  基本的にコミュニケーションスキルとすれば 何をやったらいいのか見当はつきそう。
 


でもコンセプチュアルスキルってどうすれば 高められるわけ? って思うよね。
 
 

どうしたらいいんだろう?


 


研修会社なんかが 主張しているのは テクニカルスキルが高まったように見えるときは 実はコンセプチュアルスキルが高まっている といわれる。 

効率化がおこって 技術が向上したように見える、、、、といわれてるんだけど 僕にいわせればこれは逆。
 
 
 
 

実質的に、プレイングマネージャーばかりの昨今に 仕事上でもとめられる大半は 高い技術力をもつ人が その技術を他の人につたえて その他の人が成果をだす ということだとおもう。


なので まず第一に 高い技術的能力が必要。それは いろんな階層でいろいろあるけど まずもってその人本人が その分野でのエキスパートである必要がある。
 

 


それを 人につたえる必要がある。
 

言葉にできにくい部分を うまく表現したりとか やってみるとどういう事態がおこると予想されるのか?とか どれぐらいの時間がかかるのか?とか そういうことをつたえていく。

それが うまくいけば わかりやすく人に説明できたり 納得感が たかまったりする。
 
 


次は 人を動員していかないといけない。

複数の人にうごいてもらうためには 見ために 気をつけたり 普段からのコミュニケーション戦略をかんがえたり そういうことをやっていくわけだ。

 


そうして 人を介して成果をだすことが できていくようになる。
 

 
 
 


コンセプチュアルスキルが高まったかどうか?というのは、この人を介して成果をだしているかどうか?で はかることができるとおもうし そのためには まず最初に テクニカルスキルが高いレベルでないと そうなることができない。

つまり、なんにせよ その仕事そのものが 高いレベルでできることが 絶対条件だ ということだとおもう。


 


ましてや コンセプチュアルスキルそのものにアプローチして その能力が高まるわけではない。

 
 
 

「人を育てていく」ためのスキルである コーチングは 本来的にこの「コンセプチュアルスキル」の向上を目的にしているわけで コミュニケーションスキルの向上は どちらかというと 二次的なメリットだとおもう。
 
 
 

ここは結構 重要なポイントで、だからこそ コーチをされて成果を出した経験が コーチ側に必要で その経験がなければ コーチングをコミュニケーションスキルととらえてしまえば コーチングの軸はぶれてしまう。
 
 


« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »